えびす講 花火大会を
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えびす講は長野市岩石町にあります西宮神社の御祭礼で、11 月18 日から20 日に商売繁盛・五穀豊穣・開運招福の祈願の方々で大変賑やかに行われます。昔はこのえびす講に合わせ、商店では大売出しを行い、周辺農家などから冬支度の買い物に来られるのが慣例になっていました。こうした中、明治32年(1899年)、街の有志たちが「長野市大煙火大会」と銘打って、「えびすの神」に誠意と感謝の意を表わすと共にえびす講の景気付けをしようと、朝から夜半まで七寸玉、五寸玉、三寸玉を打ち上げました。同時に全市商店大売出しをすると、人出で賑わい商店は大繁盛となりました。以来、えびす講にあわせ花火を打ち上げることになりました。
炭平グループは、慶長時代、善光寺の門前町の一角を創業の地とし商いの光をともした時代から、常に先駆の精神を発揮し、今日まで成長してまいりました。1893年(明治26年)8月十四代鷲澤平六翁が近代産業の基礎とも言うべきセメントに着目して当時の浅野総一郎氏(アサノセメント創業者)とセメントの販売を特約、信越線開通前馬の背に樽を積んで碓氷峠を越え、長野県下に初めてセメントを販売する。大正5(1916)年、長野商工懇話会主催の煙火大会で、日本で最初の二尺玉を打上げ世間をアッと驚天させました。その中心人物が十四代鷲澤平六でした。当初は、資金が足りず多額の自費を注ぎ込み、寄付金集めに奔走しました。
「東京から名題の大芝居を招いて見物するとしても、ざっと1日に3,000円くらいな金を使い果たしてしまう。しかも見物人の数は700~800か、せいぜい1,000人が止まりじゃねえか。ずいぶんと高いものだ。それに比べると花火の金は3,000~4,000円程度で10何万の人に、貧富老幼の差別なく、顔を外へ差し伸べれば無造作に見せられるんだから、世の中にこんな安いものはあるまい」と寄付を渋る人には自ら説得しました。この想いは、現在の炭平グループの精神「地域に密着・貢献」の礎となっています。
大正5年長野市えびす講大煙火会仕込み
(中央が鷲澤翁)
1948年(昭和23年)7月鷲澤家個人経営から「株式会社炭平本店鷲澤平六商店」に改組、十五代鷲澤平六が初代社長に就任。
十五代鷲澤平六が英語で書いた昭和29年頃の財務諸表(理由は不明)
十六代社長 鷲澤正一
2001年(平成13年)11月11日鷲澤正一が長野市長に就任。
2013年(平成25年)11月10日の退任まで3期を務める。
2014年(平成26年)に旭日中綬章受章。